#13 公明党と創価学会の関係がわかる 「公明党 創価学会と50年の軌跡」

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こんばんは、イチカラセイジです。

今回は、2016年4月25日発行の薬師寺克行氏著、「公明党 創価学会と50年の軌跡」について皆様にお伝えしていきたいと思います。

国政選挙で常に700万票以上を獲得、創価学会を支持母体とした強固な政治勢力である公明党は実際どういった政党なのでしょうか。

何を目指し結党し、そして結党から50年以上どういった歩みを経て、現在の公明党になっているのでしょうか?

一般市民のイメージは「なんとなく宗教でしょ?」「選挙だけ物凄く熱心だよね」「創価学会でしょ?」「でも創価学会の人たちって人としては良いよね」、「公明党の議員さんってみんな創価学会なんでしょ?」といったものが大半だと思います。

いずれにしても結党から50年以上の歴史を持つ政党(※但し、公明党は一度新進党に参加した際に一度解党を経験)で名前がそのまま存在するのは、自由民主党、日本共産党、公明党のみとなっています。

現在、自公連立政権として政権を担っている公明党の素性を知ることは、有権者である国民にとって非常に重要なことだと思っています。

Photo by Priscilla Du Preez on Unsplash

「どんな人が書いているのか?」

 1955年(昭和30)岡山県生まれ。79年東京大学文学部卒業、朝日新聞社入社。主に政治部で国内政治や日本外交を担当。論説委員。月刊誌「論座」編集長。政治部長、編集委員などを経て、2011年に退社し東洋大学社会学部教授、専門は現代政治論、政治過程論。著書「証言 民主党政権」(講談社、2012年)、「現代日本政治史」(有斐閣、2014年)ほか多数

「創価学会との関係」

 後述する「どんな軌跡をこれまで歩んできたのか」で記載している年表などを参考して頂ければ分かりますが、公明党は元々、創価学会「文化部」に端を発しています。

 言論出版妨害事件を契機とした政教分離がなされるまで、実質的に「公明党=創価学会」時代が続いていました。実際に1964年の結党時には、公明党は創価学会と一体の政党であることを公言していました。

 一方で、現在の公明党は創価学会という宗教団体とは表向きには分離しています。

1970年に政教分離が公言して以降、段階的ではありましたが、表裏での分離が進んでいると言えると思います。

 現在では、公明党最大の支持団体が創価学会といった関係性となっています。

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「支持母体・創価学会とは何か」

 創価学会は日蓮正宗の信者の団体であり、1930年に教育者であった牧口常三郎が「創価教育学会」を結成し、46年に創価学会と改称しています。日蓮上人の説いた法華経を仰ぎ、「南無妙法蓮華経」を唱える勤行に励めば、さまざまな苦難に打ち勝つ強い自分が作られると主張していました。

その創価学会の3代目会長についたのが、「公明党」を作った池田大作でした。

1964年11月に公明党が結党される頃、創価学会の世帯数は500万人に達し、参議院に15議席を確保し、地方議会議員も1000人を超え、日本社会に一定の地位を築いていました。

Photo by Lina Trochez on Unsplash

「そもそも公明党とは元々何を目指して結党したのか」

 公明党の結党宣言では、「王仏冥合・仏法民主主義を基本理念として、日本の政界を根本的に浄化し、議会制民主主義の基礎を確立し、深く大衆に根をおろして、大衆福祉の実現をはかるものである」と規定しています。

 朝日新聞は結党を受けた社説で、「公明党は創価学会の教義にいう「王仏冥合」、つまり政治と信仰の統一の理想を、そのまま政党の結党理念としている。そして、その場合の信仰とは、この党が真実の宗教だとする日蓮正宗を指すものと思われる。特定の信仰の政治的強制につながりはしまいか。こうした疑問はなお根強いものがある(1964年11月18日付朝刊)」と指摘をしています。

 当時の創価学会は、「広宣流布」と「国立戒壇建立」を決議することを最重要施策と考え、宗教団体である創価学会が政治の世界に進出した理由は、国立戒壇や王仏冥合など宗教的目的で説明されています。そして、その宗教的取り組み実現の為に地方議員を量産していました。

ここの「広宣流布」と「国立戒壇建立」とは一体なんなのか?この辺りについては、以下に詳細ウェブサイトにも詳細に掲載していますので、ご確認頂ければと思います。

・「広宣流布」
https://www.sokanet.jp/kyougakunyuumon/nichirendaishouninnobuppou/ishoujyoubutsutokousenrufu/02-2/02-2/

・「国立戒壇」
https://www.myotsuuji.info/%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E6%88%92%E5%A3%87-%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/

 本書によれば、当時、国民からは「日蓮正宗を国教化しようとしている」「ファシスト的体質を持つ政党」「軍隊組織で布教活動をしている」など批判的な見出しが踊っていたとのことです。

それが当たり前の反応だと思うのは私だけではないかと思います。

Photo by Matthew Henry on Unsplash

「どんな軌跡をこれまで歩んできたのか」

これまでの公明党の関連年表の中でも、さらに公明党の軌跡が分かりやすい部分を抽出して、お伝えをすると以下のようになります。

1954年 11月22日創価学会に「文化部」を設置

1961年 5月3日創価学会文化部が「文化局」に昇格し、その下に「政治部」が出
来る。同年11月27日公明党政治連盟を結成

1964年 5月3日池田会長が公明党結党を提案。11月17日公明党結党。

1986年 4月11日党大会で日米安全保障条約の段階的解消方針を決定。同年、池田会長が「日中国交正常化への提言」を発表。

1969年 公明党の言論出版妨害が発覚。野党各党が衆院予算委員会などで追求を受ける。翌年、池田会長が創価学会総会で政教分離を打ち出し、党大会で新綱領を採択し政教分離を決定

1974年 12月28日創価学会と共産党が相互理解などを謳う協定に署名

1975年 7月27日創価学会と共産党が協定を公表(創共協定)同年8月1日公明党が協定を否定する見解を発表。

1981年 12月1日党大会で日米安全保障条約容認、自衛隊合憲に政策を転換

1988年〜1989年 田代富士男参院議員が汚職事件、池田克也衆院議員がリクルート事件で相次いで議員辞職。

1993年 8月9日非自民勢力による細川内閣が発足し公明党も与党になる。

1994年 11月5日党大会で新進党に分党方式での参加が決定し、公明党解党。地方議員による「公明」を結党。同年12月10日新進党結党。

1997年 12月27日新進党解党。旧公明党勢力は「新党平和」と「黎明(れいめい)クラブ」を結党。

1998年 1月18日「公明」に「黎明クラブ」が合流。11月7日「公明」と「新党平和」が合流し、新「公明党」結党。

1999年 1月14日自民党と自由党の連立内閣発足。10月5日自自公連立政権が発足。

2009年 8月30日総選挙で民主党が勝利し政権交代。公明党は野党に転落。9月8日党大会で山口那津男が代表就任。

2012年 12月16日総選挙で自民党が圧勝し政権交代。12月26日第2次安倍晋三内閣発足。

2014年 7月1日集団的自衛権についての憲法解釈の見直しを閣議決定。11月17日公明党が結党50周年。

2015年 12月16日自民党と公明党が、消費税10%引き上げ時の軽減税率を酒類と外食を除く食品全般を対象とすることで合意。

「公明党 創価学会と50年の軌跡」 271〜274頁より

政教分離以降、それまでの密な連携が難しくなってきた中で、次第に公明党と創価学会の間に距離感と思想のズレが出てきました。

そういった中で、敵対中の敵対関係にあった創価学会と共産党の「創共協定」は世間を騒がせました。その頃が公明党にとって「革新色」が強かった時代となっています。

公明党は、右(自民党)に左(社民、共産)にブレにブレました。
外交、安全保障といった党の基本政策に加え、権力といったパワーバランスを意識した結果だと感じられます。

この時の印象があるせいで未だに地方政治においても、実際「公明党は風見鶏政党」と呼ばれているところも現実にあります。

Photo by Caleb Woods on Unsplash

「公明党は何を目指しているのか」

公明党はこれまで「平和の党」というイメージ戦略のもと、「福祉」や「教育」など特定の分野で自主性を発揮してきた政党です。

自民党のようにありとあらゆる分野の政策に対応する「総合デパート」「総合商社」的な政党ではありませんでした。

そうした政党が1999年以降連立政権を作り、政権与党として多くの期間を国政全般に携わってきました。国政全般に携わるということは、多岐の政策に精通していく能力、政党としての国家像を明確にしていく必要があります。

代表的な例はやはり「集団的自衛権の憲法解釈」でしょう。

公明党は結党以来、一貫して集団的自衛権には反対していました。

それでも、憲法解釈の変更に付き合い連立を維持するか、一貫した姿勢で連立を解消するかの選択に迫られていましたが、最終的には連立維持を選択し、自公協議は集団的自衛権について「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」などという条件付きで行使を認めることで合意したのです。

本書の最終章で、これからの公明党の目指すべき方向性を感じさせる部分として、以下のように記載されている。

 立候補に至る経緯を話してくれた衆院議員の中川康洋は、「これまで公明党は現場の声を大事にして、個別政策の要求や実現に力を入れてきた。連立政権に参加しても、全体の話は自民党に任せる傾向があった。しかし、これからはそうはいかないし、支持者もそれを許さなくなってきた。外交、安全保障、経済政策など国家像を持たなくはならない。国際社会の中でどういう日本を作るのか、ビジョンを持つ必要がある」と、公明党の課題を語る。

「公明党 創価学会と50年の軌跡」 262頁より

 参院議員の平木大作も「与党になれば国の姿のグランドデザインを描かなければならないが、公明党にはまだ、そこまでの力が十分にはなく、政党として苦しみ、あがいているところだ」と認めた。

「公明党 創価学会と50年の軌跡」 262頁より

本書でも表現されていますが、公明党は「部分最適」を真面目に議論できる政党ではありますが、部分最適を積み重ねることが必ずしも「全体最適」に繋がるわけではないことは、周知の事実かと思います。

この「全体最適」の視点をどのように持つのかが、公明党が未だ苦手な部分なのかもしれません。

一般市民から見える公明党と、政治玄人から見える公明党のギャップもこういったところから見えるのかもしれません。

有権者から見て、「正しく」公明党を知ることができる大変意味のある一冊だと思います。このブログがどこまで多くの有権者に見られていくものになるのかはわかりませんが、少なくともこの記事を読んで下さった方々にとって、選挙の際の基礎的な材料に使って頂ければ幸いです。

今回も最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

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