皆さん、こんばんは。イチカラセイジです。
このブログは1985年生まれで、奥様と息子の3人家庭を持つイチカラセイジが、イチカラ家の日常を通じて得た同世代に役立つ情報をつづっているブログです。
「子どものこと、お金のこと、家のこと、政治のこと」を中心に毎日発信をしています。
本ブログでは毎週水曜日と日曜日には、政治初心者向けに興味関心が持てるような記事を発信していきます。
さて本日は、「『左派』と『右派』のはじまり」というテーマでつづってまいります。
政治に携わっていない方々にとって、日常的に左派とか右派とか、あの人は左的な考えねとか、右寄りねとか。
そういった井戸端会議を行う人はかなり少ないのではないかと思います。
特に、比較的若い子育て世帯にとってはそういった会話は何方かと言えば、倦厭されがちな内容だと思います。
ですが、社会で生きていく中で、少なからずこういった政治的な用語に触れながら、物事を考えていく場面もきっと年齢を重ねるごとに増えていくかと思います。
また、いくら避けていたとしても実生活において、世界が、日本において政治的な観点からニュース等を見ていくことは、非常に重要なことです。
政治的意識をもって自らのフィルターを通して、日々のメディアが報道する内容を見ていくことが、偏らない為の重要な手法となります。
それでは、今回のテーマである「『左派』と『右派』のはじまり」について、つづっていきたいと思います。
はじまりは「1789年フランス革命」
1789年にフランスで勃発した、ブルボン絶対王政を倒した市民革命「フランス革命」は非常に有名です。
実は、このフランス革命が「左派」「右派」といった呼び名のはじまりと言われています。
ブルボン絶対王政打倒を目指す市民革命によって成立した国民議会では、「ブルボン王朝の倒し方」について大きく2つの意見が対立していたとされています。
先ず、これまでの体制であるブルボン王朝を支持し、伝統を重んじる保守派です。
保守派は「確かにルイ16世には問題があるから、市民革命自体は必要。だが、長い歴史を持つ王政そのものをやめる必要はなく、新しい別の王を立てれば良い。」という考えを持っていました。
つまりなるべく旧体制を維持しながら、改善をしていくといったスタンスです。
もう一方は、旧体制の崩壊、打破を求める過激派です。
「今こそ、腐り切った王政を打破して、人民の共和国を建てるのだ!」という考えです。
同じ方向を向いてはいるのですが、その手法には大きな食い違いあります。
政治の世界においてはよくある話で、あるあるです。
ただ、この2つの対立意見が収束する前に、王妃マリーアントワネットが首謀し市民弾圧を図ったため、市民は武力行使に出ることになり、結果として国王と王妃も捕まり、大勢の貴族も殺される形となりました。
王政打倒が行われ、共和派だけの議会が開かれ、フランスは共和国となりました。
「左派」と「右派」は議会の着席位置から誕生した
ところが、今度は共和派が分裂します。
前段のとおり、もともと共和派は「保守派と過激派」で分かれていたことをお伝えしていましたが、フランス共和国となった後もこの考え方による対立が発生していたのです。
分裂の様子としては、
- 先ず、ルイ16世の処刑と富裕層からの財産没収を要求するジャコバン派(山岳派)
- 王政打倒は果たした。富裕層個人の財産を守り、革命は終結したことを求めるジロンド派
因みに、「山岳派」という呼び名は、この派の議員たちが、国民公会の議席の高所を占めていたことに由来しています。
つまり、過激派のジャコバン派と、保守派のジロンド派、といった構図と簡単に理解してもらえればと思います。
注目ポイントとしては、この分裂時の議会における着席位置です。
ジャコバン派(≒山岳派)が議長席から見て「左」位置に着席しており、ジロンド派が「右」位置に着席をしていました。
そのことから、前者を「左派」、後者を「右派」と呼ぶようになりました。
こういった流れから、「右派」は急激な変化を求めず、共同体(社会や家族)の伝統や秩序を重んじ、個人はその共同体の一員として最大限頑張ろう!という考え方となりました。
「保守主義」とも呼べるかと思います。
一方で、「左派」は改革や革命を重視し、共同体より個人を重んじます。個人の権利と自由を制限するものは、根本的に作り替えてしまおうという考え方です。
「リベラル(自由主義者)」と呼べるかと思います。
ジャコバン派とジロンド派の議会の席位置によって、こういった呼ばれ方がされるようになったという話です。
どんな組織であれ、総論賛成各論「対立」が発生しえる
今回は、「右派」と「左派」の呼び名のはじまりに関してつづってきました。
現代に通じる学びとして、私自身は「総論賛成各論対立」はどこの組織でも起き得るということを感じました。
一つ、日本共産党の「内ゲバ」に例えてみたいと思います。
1950年、日本共産党がいわゆる「所感派」(主流派・武力闘争を肯定)と「国際派」(反主流派・武力闘争を否定)に分裂し、学生運動においても両派の間で対立が起きました。
これにより騒乱が頻発、それまで学生運動に対する「国を担う若者が憂国の志を抱いて国家権力に立ち向かう」というイメージは急激に悪化し、日本共産党も支持を失った。
支持回復を目指す日本共産党は武力闘争を否定する路線を取るが、この路線を否定する形で生まれた新左翼が1960年代から先鋭・過激化し、更に複数の党派に分裂して対立を深めていきました。
最初は集団での小競り合いだったが、じきに対立党派のメンバーを拉致監禁して暴力を振るうようになり、「ゲバ棒」と呼ばれる角材や鉄パイプが凶器として用いられ、あらゆる場所で内ゲバが横行しました。
大学構内、教室、食堂はおろか、卒業生の職場、飲食店、路上、下宿などが犯行現場となり、その場で殺害された者も多くいます。
日本共産党で例えてしまった為、後味が悪くなってしまいましたw
ただ、政治の世界に限らず、一般社会に置き換えて考えてみても大小あれど同じような場面もあるのではないでしょうか。
ビジネスの世界においても、同じ方向を向いているのに、その手法、実現するための路線が大きく異なり、結果として対立し分裂してしまうというケースは思い浮かぶのではないでしょうか。
大切なことは、人間とはそういうものだと認識することにあるかと思っています。
まとめ
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「左派」と「右派」のはじまりは、1789年〜フランス革命がきっかけだった
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王政打倒後の「ジャコバン派(≒山岳派)」と「ジロンド派」の路線対立によって誕生した
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過激派であり、共同体(社会や家族)よりも個人の権利と自由を重んじる「ジャコバン派(≒山岳派)」が、議長席からみて左側に着席していたから「左派」
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保守派であり、共同体の共同体(社会や家族)の伝統や秩序を重んじ、個人はその共同体の一員という考えを重んじる「ジロンド派」が、議長席からみて右側に着席していたから「右派」
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現代に通じる学びとして、どんな組織であれ、総論賛成各論「対立」が発生しえるということ
如何だったでしょうか。
今回は、「『左派』と『右派』のはじまり」tというテーマでつづってまいりました。
次回は、【「左派」と「右派」のはじまり②】をお送りできればと予定をしています。
過激派と保守派という一次元的な考え方だけではなくなってきたという話になります。
今回も最後まで読んでいただき、有難うございました。
また明日もどうぞ宜しくお願い致します。
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