#49 政治思想としての資本主義〜ナポレオンの敗北は、自由主義への敗北でもあった〜

一から政治

皆さん、こんばんは。イチカラセイジです。

 

このブログは1985年生まれで、奥様と息子の3人家庭を持つイチカラセイジが、イチカラ家の日常を通じて得た同世代に役立つ情報をつづっているブログです。

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本ブログでは毎週水曜土曜日曜には、政治初心者向けに興味関心が持てるような記事を発信していきます。 

 

今回も、茂木誠氏著「世界の今を読み解く政治思想マトリックス」から学ばせて頂き、イチカラセイジの目線を加えて発信をさせていただいています。

初心者にもわかりやすく、政治に関心が持てる素晴らしい一冊ですので、ぜひ購入し読んでいただければと思います。

 

さて本日は、「政治思想としての資本主義〜ナポレオンの敗北は、自由主義への敗北でもあった〜というテーマでつづってまいります。

 

 

昨日お届けした「#48 なぜ同じ支持基盤から政治思想の対立が生まれるのか」では、以下の点についてお伝えしてました。

 

  • イギリスにおいても、様々な革命を通じて、王政から議会へと国家運営の権力が移行してきた。
  • 産業革命以降、一次元的な政治思想に経済政策(自由貿易or保護貿易)が加わった
  • 自由貿易は現代でいう「グローバリズム」の立場で左派。保護貿易は「ナショナリズム」の立場で右派。

 

同じ支持基盤といっても、見る角度を変えると、違うものになり得るということ。

経済的価値観は政治思想と切っても切り離せないものということがわかりました。

 

本日は、「経済的価値観」に加えて、「資本主義と保護主義」という観点を、フランスを代表するかの有名なナポレオンを用いて、加えていきたいと思います。

 

政治思想としての資本主義のはじまりは、宗教だった

近代を構築してきた「資本主義」ですが、社会主義だの、共産主義だの、さまざま政治思想(イデオロギー)が誕生しているので、「資本主義」という言葉はそれらと一緒に覚えられていますが、元々は経済的な利益を追求を最大の価値とする経済システムとして使われていました。

 

こういった意味で、古代ローマ時代から使われていました。

ではいつから、政治思想としての資本主義が誕生したのでしょうか😕❓

 

それは16世紀のキリスト教、カトリックとプロテスタントの関係があります。

 

歴史で習っていますので、多くの人はこのカトリックとプロテスタントという言葉は覚えているかと思います。

そう、日本人なら誰もが知っているフランシスコ・ザビエルはカトリック教会でした❗️

 

「蓄財は罪」と説くカトリックと、「禁欲と投資」を説くプロテスタント

16世紀のカトリック教会は、「免罪符」なるお札を購入すれば罪が許されると説教していました。そして、「蓄財は罪」であり、教会へ寄付をすることで救われると教えられていました。

 

一方で、その教えに反発したのが、プロテスタント。

当時、最も先鋭的な教えを説いて、その実践を重んじていたのがかルヴァン派です。

 

禁欲を重んじ、「一生懸命に働くことこそが神のご意志である」と考え、教会で祈るだけではなく、日々、神と向き合い、自分の仕事を真面目に頑張ることを奨励したのです。

カトリック教会とは真逆です。

 

一生懸命働くとお金がたまります。
ですが、そのお金を使って贅沢をすることは禁じられていました。

 

お金の使い道として許されていたのが、「投資」です。

そうしたことで、カルヴァン派の人々は、「禁欲&投資」でどんどんお金を増やしていきました。

 

これが一見、対極にあるように見える「宗教とお金」の結びつきであり、投資によって、お金がお金を生み出すサイクルが加速した瞬間でした。

「労働と蓄財は罪」vs「禁欲と投資」、イデオロギーとしての「資本主義」の始まりでした。

 

そして、宗教改革によって生まれたプロテスタントのこういった教えは、西ヨーロッパに広がり、スイス、ドイツ、オランダ、さらにイギリス・フランスと広がっていき、アメリカの建国そのものにも関わってきました。これはドイツの社会学者マックス・ウェーバーの説ですが、現在もプロテスタントの国々が大きく発展してきた様子から、有力だと考えています。

 

現在の超大国アメリカを作ったのは、プロテスタントという宗教的なバックグラウンドがあったからと言われています。

一方で、中南米に乗り込んでいったスペイン人やポルトガル人の多くはカトリック教徒でした。

 

繰り返しになりますが、中世のカトリック教会では、「蓄財は罪であり、教会に寄付すれば救われる」と教えられていましたので、勤労意欲もわかず、資産が増える環境とはなりませんでした。

 

ナポレオンの敗北は、自由主義への敗北でもあった

産業革命が各国で起きる中で、その先端を走っていたのがイギリスでした。

 

19世紀のイギリスは、資本主義という新たな秩序の中で、圧倒的な工業力を武器に、自由貿易の恩恵を受けていました。

圧倒的に輸出力の強い国が自由貿易を展開していると、イギリス以外の国では自国産業が発達しません。

 

そこに待ったをかけたのが、フランスであり、イギリスとの貿易を禁止した「大陸封鎖令」を出したナポレオンでした。

そこには「イギリス製品の流入を阻止し、フランスのための欧州市場を独占する」狙いがありました。

 

ところが、イギリスとの貿易を禁止した為、イギリスに穀物を輸出していたロシアやポルトガルといった農業国は大打撃を受けます。

そこで、イギリスとの貿易により大きな不利益を被った国々とイギリスは手を結び、「対フランス大同盟」を組み、ナポレオンを撃破しました。

 

ナポレオン戦争は、「ナポレオンがとった保護主義に対するイギリスを中心とする自由主義の勝利」とも言えるのです。

 

その後、イギリスは着実に自由貿易対象国を増加させていきます。

開国に応じない清国に対しては、アヘン戦争を仕掛け、香港島の獲得、開港、不平等条約の締結しました。

 

阿片戦争(アヘンせんそう、中: 鴉片戰爭、第一次鴉片戰爭、英: First Opium War)は、清とイギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。

イギリスは、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていた。アヘン販売を禁止していた清は、アヘンの蔓延に対してその全面禁輸を断行し、イギリス商人の保有するアヘンを没収・処分したため、反発したイギリスとの間で戦争となった。イギリスの勝利に終わり[2]、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。(wikipedia)

 

この様子を見て、我が国日本(江戸幕府)では、アメリカのペリー艦隊が来航すると、戦わずに国を開きました。

こうして、アジア諸国も次々と自由貿易体制に組み込まれていくことになりました。

 

自由主義がもたらしたもの

産業革命が進み、自国製品がどんどん誕生し、自由主義体制に組み込まれている国々に輸出できる側にとっては、巨大なマーケットから巨大な利益を享受することができます。

 

一方で、無理矢理開国を強いられた国々にとっては、自国の産業が衰退するきっかけになります。

清国では太平天国の乱、日本では幕末の騒乱、インド大反乱、いずれも自由貿易によって、大量の失業者が発生し社会不安を引き起こしました。

 

また、一人勝ちに見えるイギリスにおいても、いき過ぎた自由主義の影にあたる部分が社会問題化しはじめます。

イギリス内においても一部の産業資本家に富が集まり、工場労働者は劣悪な環境と低賃金に苦しみました。

 

さらに環境への配慮など当時は度外視でしたので、生活用水は汚染され、空はスモッグで覆われ、コレラや結核などの感染症の蔓延など、悲惨な社会になっていきました。

 

資本家と労働者における貧富の差が極大まで広がり、さまざまな社会問題が発生する中、「資本主義社会は間違っている!」「貧富の格差をなくすために、個人(資本家)の自由よりも平等だ!」という思想が芽生え始めたのは必然と言えます。

 

この必然によって、誕生した思想が「社会主義」です。

 

まとめ

  • 資本主義のはじまりは、宗教的思想の対立から誕生した「禁欲&投資」というプロテスタントの教えから始まった政治思想
  • ナポレオン戦争は、自由主義と保護主義の戦争だった
  • 拡大する自由主義は、極度な経済的格差を誕生させ、各国における社会不安による内乱や、地球環境の悪化を招いた → 社会主義思想の誕生につながる

 

さて今回は、「政治思想としての資本主義〜ナポレオンの敗北は、自由主義への敗北でもあった〜」というテーマで綴らせていただきました。

 

どうでしょうか?

 

かなり現代においても当てはまるような話なのではないでしょうか。

 

次回は、行き過ぎた自由主義がつくった「社会主義思想」についてつづっていきたいと思います。

 

本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

また明日も見ていただけると嬉しいです。

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