皆さん、こんばんは。イチカラセイジです。
このブログは1985年生まれで、奥様と息子の3人家庭を持つイチカラセイジが、イチカラ家の日常を通じて得た同世代に役立つ情報をつづっているブログです。
「子どものこと、お金のこと、家のこと、政治のこと」を中心に毎日発信をしています。
本ブログでは毎週水曜土曜日曜には、政治初心者向けに興味関心が持てるような記事を発信していきます。
さて本日は、「なぜ同じ支持基盤から政治思想の対立が生まれるのか」というテーマでつづってまいります。
今回も実生活に落とし込んでお伝えできるよう努力致します。
政治を知ることが、豊かな人生を歩む為の糧になればと思ってお届けさせていただきます。
「#45 「左派」と「右派」のはじまり」 では、主にフランス革命を通じて、「左派」と「右派」という概念が生まれたというお話をしてきました。
王政打倒を成し遂げた市民が、その後の政権のあり方や富裕層たちの処分の仕方を巡って、保守的な考え(ジロンド派)と過激的な考え(ジャコバン派)が対立してしまったという話でした。
今回は、「なぜ同じ支持基盤から政治思想の対立が生まれるのか」について、イギリスの歴史を例にお伝えしてまいります。
イギリスにおける国王と議会の関係
フランス革命と同じ時期のイギリスでも、国家や伝統を重んじる「保守党」と、個人の自由や権利を重視する「自由党」という形で、思想的対立が発生していました。
イギリスの場合、国王は存在していたのですが、フランスほど権力が強いものではなく、議会が機能していました。
貴族と市民代表からなる議会が予算承認権を持っていたので、国王が勝手に増税を強いることはできませんでした。
ですが、17世紀に入ると、フランス・ブルボン王朝を真似て、イギリス王チャールズ1世が独裁化。
議会を無視するようになりました。
当然、議会は国王と衝突します。
これがいわゆる清教徒革命(ピューリタン革命)と呼ばれているものです。
結果、議会派のクロムウェルが国王軍を破って、国王チャールズ1世は処刑されました。
ですが今度は、この国王を破ったクロムウェルが独裁化してしまいました。
そこで議会は、チャールズ1世の王子たちを王位につけました。「王政復古」です。
その後、「名誉革命」が起こり、「王は議会の承認なしに、様々なことを決めることができない/進められない/認められない」といった事項を列挙した「権利の章典を認めさせる」といった先進的な立憲君主制を導入することに成功しました。
さて、イギリスにおいても様々なことがありましたが、端的に表現してしまえばフランス同様、「王政から議会へと国政運営の権利が移行」してきたといえます。
これは、議会を構成する市民の努力によるもので、現代でも通じる画期的なものでしたが、今度は権力を持った「議会自体」に焦点があたっていくことになります。
議会における政治思想の対立
先ほども記載した「名誉革命」の直前に「トーリ党(保守党)」と「ホイッグ党(自由党)」という二大政党が誕生します。
フランスでもお馴染みですが、産業革命前の当初は
トーリ党(保守党):国王に甘い
ホイッグ党(自由党):国王に厳しい
といった政治的スタンスの違いでした。
ところが、産業革命後、そのスタンスが明確に変わってきます。
産業革命は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と石炭利用によるエネルギー革命、それにともなう社会構造の変革のことである。 産業革命において特に重要な変革とみなされるものには、綿織物の生産過程におけるさまざまな技術革新、製鉄業の成長、そしてなによりも蒸気機関の開発による動力源の刷新が挙げられる。 ウィキペディア
産業革命が始まると新興工業都市に人口が集中し、工場などの経営者(産業資本家)が経済的な力を持ち始めます。
ところが、当時の選挙制度はそういった人口の流動化に対応したものになっていない、中世の13世紀に定まったものでした。
400年程前の人口分布に応じて選挙区が定められ、各選挙区から1名の議員を選出する仕組みでした。
なので、いくら産業革命がはじまり、都市部に人口が集中しようが、農村選挙区を基盤とするトーリ党(保守党)にとって有利になるばかりでした。
それが保守党長期政権を維持させる原因にもなり、力を持ち始めた経営者(産業資本家)が求める規制緩和や制度緩和を妨害してきたのです。
経済政策と政治思想は切り離せない関係になる
経済的影響力を持ち始めると、経営の観点で利益を最大化できるよう、政治に働きかける。
これは現代にも通じる普遍的な考えです。
産業革命以降、力を持ち始めた経営者(産業資本家)たちは、万年野党だったホイッグ党(自由党)を潤沢な政治献金とセットで応援しました。
その結果、1830年に自由党が政権奪回を果たし、グレイ内閣が成立。
早速選挙法を改正し、産業資本家の選挙権を認めさせました。
自由党と保守党は、以下のような構図で経済政策でも対立しました。
保守党:保護貿易を支持
自由党:自由貿易を支持
輸出で利益を最大化させていた産業資本家は、低関税による自由貿易を主張、一方で穀物生産者である地主は輸入穀物に高い関税をかける保護貿易を主張。
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自由貿易を主張する前者は、今で言う「グローバリズム」の立場で、経済的自由を求める「左派」
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保護貿易を主張する後者は、今で言う「ナショナリズム」の立場で、自国産業保護を求める「右派」
この自由貿易か、保護貿易かは、政治思想を考える上で大切な観点となります。
つまり、国家運営といった観点での「左派」と「右派」に加えて、経済政策における「左派」と「右派」の軸が出てきたということです。
その後のイギリスは、経済政策としては自由貿易に大きく舵を切り、皆様ご存知のとおり「世界の工場」と呼ばれるまでになりました。
まとめ
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イギリスにおいても、様々な革命を通じて、王政から議会へと国家運営の権力が移行してきた。
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産業革命以降、一次元的な政治思想に経済政策(自由貿易or保護貿易)が加わった
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自由貿易は現代でいう「グローバリズム」の立場で左派。保護貿易は「ナショナリズム」の立場で右派。
同じ支持基盤といっても、見る角度を変えると、違う基盤になり得るということですね。
さて、本日はここまでとさせていただきたいと思います。
教養は人生をより豊かにしてくれるものです。
現代でも通じる政治思想を勉強すると、「人生がより豊か」になります。
これからも毎週水曜土曜日曜には、政治初心者向けに興味関心が持てるような記事を発信していきます。
それではまた明日もどうぞ宜しくお願い致します。
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