皆さん、こんばんは。イチカラセイジです。
このブログは1985年生まれで、奥様と息子の3人家庭を持つイチカラセイジが、イチカラ家の日常を通じて得た同世代に役立つ情報をつづっているブログです。
「子どものこと、お金のこと、家のこと、政治のこと」を中心に毎日発信をしています。
本ブログでは毎週水曜土曜日曜には、政治初心者向けに興味関心が持てるような記事を発信していきます。
今回も、茂木誠氏著「世界の今を読み解く政治思想マトリックス」から学ばせて頂き、イチカラセイジの目線を加えて発信をさせて頂いています。
初心者にもわかりやすく、政治に関心が持てる素晴らしい一冊ですので、ぜひ購入し読んでいただければと思います。
なにより凄いのが、面白いところ。出会えたことに感謝致します。
さて本日は、「『平等だが、自由ゼロ』20世紀最も左の思想・ソヴィエト連邦設立まで」というテーマでつづってまいります。
前回本ブログでつづったのが、「#52 行き過ぎた自由主義から誕生した社会主義〜社会主義から共産主義の流れまで〜」でした。
簡単にまとめると、
- 貧富の格差を拡大させる資本主義を否定し、個人の自由よりも平等を大切にする思想を「社会主義」という
- 社会主義を実現する為に、フランス革命ではジャコバン派が粛清を行い、「無政府主義」(アナーキズム)がパリ・コミューンという初の労働者政権をつくった
- 「無政府主義」(アナーキズム)では、ブルジョワジー(資本家)に対抗できないと考えたカール・マルクスやエンゲルスは「共産党宣言」を発表した
- ブルジョワジーは、労働者たちに譲歩しはじめ、選挙制度改革や労働条件の改善が行われた
- 暴力革命ではなく、議会を通じて社会主義を実現しようという「修正主義」に基づく政党が増加した
社会主義を目指す人間たちにとって、マルクス主義に則った暴力革命ではなく、議会を通じて社会主義の実現を目指す「修正主義」に基づく思想が増加していきました。
社会〇〇党とか、〇〇社会党といった具合です。
そういった中、古いとされていたマルクス主義が導入された国がロシアでした。
ロシア革命キーワードは、「戦争を革命に転化させよ」
当時のロシアは、修正主義もなにも、「議会」そのものがまだありませんでした。
さらには、ロシアでは中世のピザンツ帝国の流れがそのまま続いており、政教一致の独裁が続いており、皇帝は神の代理人とされていました。
「産業革命」すら起きていない状態でしたので、ロシア無政府主義者たちは、ロシア独自の革命を模索し、ロシアにとって必要であり今できることは「農民革命」だ❗️と叫びました。
大規模な農民一揆を通じて、貴族たちとロマノフ王朝を倒し、その後に土地や資産を農民に分配していけば良いと考えたわけです。
農民一揆の動きが水面下で騒がしくなる頃、皇帝アレクサンドルⅡ世は、革命は下から起きるよりも上から起こす方が良いとし、「農奴解放令」を発布(1861年)しました。
農奴解放令のポイントは以下のとおりです。
- 農奴は人格的に解放され移動の制限から解放された。
- しかし、農奴が耕作していた土地は、有償で分与される(地代の約16倍で)ことになった。
- 分与地を買い取る代金は国が肩代わりし、農民は国に49年ローンで支払うことになっていた。この支払いは解放された農民にとっても重い負担とになった。
- 分与地は農民個人に与えられるのではなく、まとめて共同体(ミール)に渡され、そこから農民が支払額に応じて分与地を得ることになっていたが、支払える農民は稀で、ほとんどが共同体の所有となった。
といった具合に、結果的に農民の不満が溜まるような不十分な改革を行なったこともあり、過激派によって皇帝は爆殺されることになります。
その後のロシアは、ソヴィエト連邦を設立するまで、以下のような流れを踏んでいきます。
ナロードニキ運動(人民主義者)による皇帝殺害後、社会革命党を設立。
↓
ロシアにマルクス主義が輸入させるが、資本主義社会の段階になく、貧富の差の顕著化、労働者階級もいない
↓
市民革命(資本家を応援し、貴族を倒す)を行い、次に資本家が独裁的になってきたら、社会主義革命という二段階革命を提唱するグループと、貴族も資本家も敵である‼️二連続革命だ!と叫ぶグループとで分裂。
(前者をメンシェビキ(少数派)、後者をボリシェビキ(多数派))
↓
ロシア革命運動は、ナロードニキの流れを汲む「社会革命党」、二段階革命を提唱する「メンシェビキ」、二連続革命を提唱する「ボリシェビキ」の3つで分かれる
この3つのグループの中で、台頭したのが多数派であったボリシェビキのレーニンです。
レーニンと言えば、70年間続いた世界史上初の社会主義国家であるソヴィエト連邦を創設した人間として有名です。
ちなみに、今回のサムネイル画像がレーニンです。
では、レーニンはどうやってソヴィエト連邦設立まで漕ぎ着けたのでしょうか。
キーワードになってくるのは、「戦争を革命に転化する」という戦略です。
ロシアは、「日露戦争(敗北)→ポーツマス条約締結→第一次世界大戦(長期化)」
これらが国の弱体化につながり、内乱が勃発。
国会が皇帝ニコライ2世を退位させ、臨時政権が成立されます。
この資本家を中心に作られた臨時政府を「臨時政府打倒❗️戦争反対‼️」と呼びかけ、戦争や内乱によって弱りきった市民を共感を得、扇動していきます。
これに対して、臨時政府はナロードニキの流れを汲む社会革命党のケレンスキーに接近します。
「共産党独裁に反対」という点で協力し、ケレンスキー臨時政府を設立しますが、これレーニンらボリシェビキが武力で倒したのが十月革命です。
その後、レーニンらボリシェビキは名を「ロシア共産党」と改め、一党独裁体制を確立させました。
そうして誕生したのが、世界初の社会主義国家・ソヴィエト連邦でした。
「平等だが、自由ゼロ」20世紀最も左の思想「ソヴィエト連邦」
現在の北朝鮮労働党や中国共産党が採用しているのが、「ソ連モデル」です。
この社会主義国家が70年間も続いた理由が、「徹底的な国民の監視」にあります。
全国民がロシア共産党の監視下におかれ、言論の自由はなく、怠惰なものには「国家反逆罪」で銃殺。
職場やレストランにも秘密警察が常駐し、密告が奨励され、ソ連全体が巨大な牢獄と化したからです。
その牢獄を徹底的にシステム化して体制を構築したのがレーニンであり、完成させたのがスターリンでした。
1922年から1991年の崩壊まで70年の長きにわたり存在しました。
1991年って割と最近ですよね。30年前までこういった共産党独裁、社会主義国家が存在していたのです。
現在も中国は中国共産党の独裁、北朝鮮は労働党の独裁国家となっています。
さて、如何だったでしょうか❓
今回は、中世ピザンツ帝国の流れが強く、議会もなければ、産業革命を起きていなかったロシアが、どのようにしてソヴィエト連邦を設立するに至ったのかを、政治思想という観点で綴らせて頂きました。
こういった政治思想の流れを追っていくと、現代の日本における政治も、それぞれの政党活動の背景につながってきそうと思いませんか?
政治だけでなく何事もそうですが、点で見るのではなく、線でみると違った風景が見えてきます。
この政党がこういっているからこうだ!ではなく、流れや歴史、背景を意識して、言葉を理解するようにすれば、多角的な視点で物事を見れるようになります。
正解はありませんが、自分自身の出す答え(行動)にもつながりますので、勉強を重ねていくことは非常に重要ですね。
本日も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
また明日もみてくださったら嬉しいです。
それではまた。
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